昭和40年7月16日 夜の御理解



三代金光様の言葉に、「神信心には、辛抱することが一番大切でございます」「神信心には、辛抱するということが一番大切、一番大切でございます」とおっしゃている。
ところが、みんながその、八分、九分までは、辛抱をするんだけれど、もう辛抱しないと、もう御神意を伺うてから、その、右にしたり、左にしたりとか、思う。「ね」、し、抜かなければいけんです。なぜ、し、抜かなければいけんかと、「んんー」、先ほど、御祈念にかかる前でございましたけれども、長女が、親教会にお礼に出らしていかないと、丁度、夜の御祈念の時間でしたから、で、御祈念を頂いて、いって帰ってくるつもりで、おったところが、長男が私に、お父さんに手紙を持っていってくれというて、何か私に、走り書きに書いてから、手紙を託けたらしいです。それで、御祈念中に長女が、どういうことを言うてやっとるだろうかと、拝見するというて、ちょっと見たところが、「んー」「もう、どんなに考えても、も、ここで修行する気は無くなった」と、「ね」、だから明日の月次祭を、し、仕え終わったら、帰らせて頂きたいと思うがどうだろうかと言う、その、私に対する相談の手紙だったらしい。そりゃ、最近の雰囲気の中からですねえ、もう、とにかく、ほんとに、あのー、(  ?  )思っておらない、丁度、私、知ってるんです。私共は、行ってから分かるです。「ね」、おんなじ、同年輩の、息子さんもおられますし、星野在の、修行生も、おるんですけれど、もう、全然違った雰囲気なもんですから、「んんー」、もうお互い信心話でもしようてなものは、さらさら無い。
親先生が、素晴らしければ、素晴らしいだけ、親奥様が素晴らしゅう、ようして頂けばようして頂くだけ、もう、自分は、とにかくいたたまれないという気が、私にはよう分かる。この頃もそのことを私に申しましたから、「そうだな、お前があちらに辛抱しておってくれるということでね、こちらのほうに、神様のお働きが、非常に働きがありよるんだからね」「こちらに、椛目に対する神様の働きが、働らきおんなさるのじゃ、お前があそこにおるということで。」「ね」、お前がおるということで、親先生も、ある意味合いにおいては、安心しておってくださるということがある。安心しておって頂かなければ、こっちの仕事が進められないことがあるのじゃ。そういうこともあるから、ま、辛抱することだと、私はこう言うた。今日もまた、そういう風なことだったらしい。したら、御祈念を済んだらですね、御祈念を仕えながら、考えたんでしょう。「こりゃ、辛抱するべきだ」と思ったらしいんですね。「姉ちゃんさっきのの手紙ある」(笑い)ってから、まだその、姉ちゃんも見とらんと思うてるし、私もこりゃまだ、言うてやってはならないと、こう考えついたんでしょう。だから、お手紙をまた、「あー、うー」、その、取り戻したという訳なんです。
「ね」、親先生と私との話の中にも、「えー」、私が来年教務所に行くということになれば、「ね」、ま、ぶっ続け本部が一年と、こちらが一年、とにかくまあ、約二年半余りのものを、全然、あいだなし、全然帰らんなりに、あのー、本部で、親教会で修行しておりますから、二年何ヶ月間というものを、修行さして頂いておる訳でございますから、「んー」、例え、半年でも私の信心を、本気に一つ教えておきたいと。私の留守中、一年間は誰もおりゃ、かれも、先生方もおられるんだけれども、やはり、私のほうの、勝彦が、こう、一生懸命このことに御用させていただいて、先生方から「あー、こー」、それを抱擁してもらう、しながら、やはり中心は稼ぎださにゃいけんと思いますから。あのー、私の信心を教えておきたいから帰して頂きたいと、いったようなことを、申しておきましたから、「そりゃ、それどころじゃなか。」「そう、せんならん」というようなことを、おっしゃってられますから、もうここ、時期の問題なんです、いうならば。だから、こちらから、迎えに行けばです、たとえば、で、私は、総代さん方、そのことを良く知っておられますから、総代さん方の中から、もうそれがあってから、一ヶ月以上になりますから、何かわたしは話があるだろうと思っている、えー、心待ちしておる訳なんですけれど、ま、そんな話が出る風もなし。先日からでも、親先生に私は、相談したことでした。そうですな、それでまあ、本部から何か、はっきり、正式な、許可どんが来てから、迎えに行ったほうがようはないでしょうかと、言うもんですから、「それも、そうですなあ」と、いうて、私は、まあ、そのまま放任しておるようなわけなんです。「ね」、そらあ、口には言うたっちゃですよ。「ねえ」、ほんとに、勝彦ちゃんだけが、ほんと、気の毒な、勝彦ちゃんだけば修行させてから、幾ら、総代さんが言うたっちゃです、そのことを思うとらんことにゃ、そのことをこれから先でも、言わんでしょうが。ただ、もう、毎日毎日、うちの(じっちゃんがばばしゃんがしよらす、うちの?   ?   )その中を知っておりますから、どうぞ、その中に修行が出来ますように、修行が出来ますようにというて、祈っておったち。ほんなこつなら、それば私共は、話どもしちゃいけんのです。ほんとにそれだけ(   ?    )しよんなら、「ね」、そんなこと聞きましたから私、「えー」、そのことを今晩に神様にお願いさせて頂いたらです、「辛抱しよかにゃいけん」と、辛抱させんと( ? )さん。たとえばね、十(とお)のものを九つまでは、辛抱したって言うても、もう、それで辛抱しなかったら、もう、あと、その、辛抱したことが、辛抱し抜いてはならん、あとの一割が辛抱なんだ、本当言うたら。そこを皆がいい加減にして、おかげの受け物、受け場というものを、なくしてしまう。(これねえ、目の事柄でも同じこと?)「御神縁を頂いていこう」と、辛抱しきらんともう、右だ、左だと自分で決めてしまう。少し、し抜かなければつまらん。し抜かなければ、おかげの受け場と、辛抱の徳というようなものはつかん。
神信心には、なるほど一番大切でございますと仰るわけが私、分かるような気がするんです。そして私は、御神願にですね、皆さんは、ご承知でしょうか、(つるつちのお)ち、いうのがありますねえ、今頃は丸うくしなくですね、あれは、シダの一種ですね。しのく、丸く、あのして、それを玄関先になんか、下げてありますよ。「ね」、そのしのぶのですね、目の荒い、中のほうの泥の見えとる、あれは、中が泥ですもんね。それをこう、丸く固めてある。それにしのぶがいっぱいこう出て、そのう、地肌が見えんくらいにあの、しのぶの葉が出てまいりますと、「えー」ナスのおんななんかにゃ実にこう、涼しそうに見える、いわゆる盆栽なんです。そのこの、目が粗いところこっちゃる。そして、一本こうしだが、その、しのぶの葉がでておるところがですね、ほんとに私共がいう、ワラビの葉の出たような、あれは、シダ、シダになっておるところを、こう頂いておる。それで、なるほど、そうだなということなんです。しのぎ抜かせて頂けば、しのぎの徳である。より辛抱徳をうけるのですけれど、地肌のまだ見えとる間はです、まだ、地肌が見えとる間は、辛抱せにゃいかんところです。でなかったら、もしこの、このままするですよね、ほんなら、( ? )のうちに、そんなこつなら帰って来いというようなことは、沢山、何べんもあった。私としても、人間的にいうならば、もう、ほんと帰ってきたほうが良かろうと思ったことがあったけれど、「ね」、ここはやっぱ、辛抱し抜かせねばいかんと私は何遍も帰らしたんですけれど。「ね」、ちょい、そのシダがです、{ね}、シダということ、シダの、死んだ田ということは、種まいても植わらんということ。おかげの受け場というものはです、「ね」、十のものは、終わらすとこの辛抱しましたというても、それは、もう辛抱し抜かなかったシダだということ。「ね」、死んだ田だということ、おかげの受け場にゃならんということ。これをし抜かせてもろうて、地肌の見えんくらいにです、そのしなものがいっぱいこの、こう、はびしこったときです、いわゆる、あの芝生の芝が塞がるように、しのぶということの徳、辛抱ということの徳、「ね」、辛抱の徳、それが次のおかげの受け物の、受け物になるというのだから尊いのである。やはり、泣く泣くでも辛抱しいしいと、金光様がこう仰っておられたから、「ね」、その、泣く泣くでも辛抱し抜かれたところに、金光様のああいう体得が出けられた。これは、もうしばらく目を瞑ってから、辛抱させんとならんとこう思ってるんですけれども、「ね」、お互いの上におなじことですよ。「ね」、本当よう辛抱しきりまっせん。というてその、例えばその、右がいいの、左がいいのといやあ、神様はい、右がよかろ、左がよかろ言うてしまいなさるです。そこを辛抱し抜かにゃいかん。そこんとこを辛抱しぬくのだ。それが、いわゆる、ほんとのしのぐになるのである。本当の信心辛抱の徳ということになるのである。それが尊いのである。というようなことをです、「えー」、(いませ?)様が私は、金光様のこの、お言葉だけ、私の座右の銘として、お結界のここに貼ってある、三代金光様のお言葉として。神信心には辛抱することが一番大切でございます。なんでもないような言葉だけども、なるほど一番大切、信心させていただく者には一番大切ということが分かるでしょう。「ね」、その辛抱こそが、お徳を受ける修行になるのである。その辛抱こそが、いわば、しのぎ徳になるのである。ということ。何を求めているか、それを求めて信心修行しよるんじゃなかろうか。けれどもやはり、きついときはきつい。もうほんとに、苦を苦にち、いうときは、やっぱり苦を苦が重なるごと、九に、九に九を重なるような、九十九、と、九十九というところを通らなければ、百にはならんということ。お互いのことの上に、いまこの、ここんとこが必要なようでございますね。おかげ頂きました。